2016年07月25日
旧水戸街道上にあった土浦城の南門の跡地に行ってきた!
新しい街であるつくば市の中心部と違って、土浦市の中心部は昔からの城下町なので、あちらこちらに歴史的な痕跡が残っています。
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旧水戸街道は、亀城公園の南側を通っていました。
普通はこういった主要な街道は城下町を通るイメージですが、土浦城では城内を通っていたそうで城内に入る地点に門があったのだそうです。
土浦城の南側の入口にもかつて門があり、南門の跡地は土浦市の史跡に指定されています。
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旧水戸街道は、亀城公園の南側を通っていました。
普通はこういった主要な街道は城下町を通るイメージですが、土浦城では城内を通っていたそうで城内に入る地点に門があったのだそうです。
土浦城の南側の入口にもかつて門があり、南門の跡地は土浦市の史跡に指定されています。
土浦城の内側から南門跡を見た様子です。
門を入ってすぐの旧水戸街道はクランク状に曲げられており、敵の侵入を防ぐ工夫がされていますね。
(ブラタモリを見ているつもりでご覧ください。)
これは逆に南門跡地から土浦城内方面を見た様子です。
上の写真と合わせると、旧水戸街道がクランク状に曲げられた様子がわかると思います。
今は、この地点は「大町交差点」と呼ばれています。
旧水戸街道と交差する道路上を土浦高架橋(土浦ニューウェイ)が通っていますが、江戸時代は川でした。
道端には「土浦城南門跡」の説明版が設置されています。
南門跡から旧水戸街道の牛久方向を見た様子です。
上の説明版に書かれていた「枡形」と呼ばれる防御施設は、川であった交差道路の部分を橋で渡り、向こう側の左手のファミリーマート駐車場から右手の建物にかけての場所にあったそうです。
真っ直ぐ南門に入れずに、ぐるっと迂回しないと攻めてくる軍勢が城内に入れないようになっていたわけです。
(土浦市立博物館に展示されていた地図より)
今の地図と江戸時代の地図を重ね合わせると、このようになります。
ここが防御の要所となっていたことが、よくわかりますね!
すぐ脇にある土浦ニューウェイのバス停「桜町四丁目」に上がる階段から、旧水戸街道を見下ろしてみました。
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先ほどのクランクの様子が、よりわかりやすくなったでしょうか?
奥が土浦城内になります。
そして、城の防御計画のセオリー通り、この南門跡の脇には東光寺という寺があります。
いざという時には、ここに兵を待機させて侵入してくる敵を殲滅させるという仕組みだったのでしょう。
…と、今回はブラタモリ風に取り上げてみました。
Posted by Science_City at 01:34│Comments(0)
│歴史
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