2014年08月04日
苅間辻の道標の謎を追え!
1か月ほど前の記事で、苅間辻に建っていた昔の道標についての記事を書きました。
「道標に示す方向の辻褄」が合わないと書いたところ、ソルジャーさん、yuzuさんからコメントをいただき、ソルジャーさんからは八坂神社境内に別の道標があるとの情報をいただき、もう1度八坂神社を見てきました!
【過去の記事】
おかげさまで、ついに謎はすべて解けました!
「道標に示す方向の辻褄」が合わないと書いたところ、ソルジャーさん、yuzuさんからコメントをいただき、ソルジャーさんからは八坂神社境内に別の道標があるとの情報をいただき、もう1度八坂神社を見てきました!
【過去の記事】
2014/07/03
2013/02/18
おかげさまで、ついに謎はすべて解けました!
ソルジャーさんから教えていただいた、もう1つの道標は結構わかりづらいところにありました。
正面右側の道路沿い、小屋の裏に隠れて立っていました。
道標の左側には、「← 高田 鬼が窪 金村」、
右側には「→ 妻木 柴崎 中根 藤澤」
と書かれています。
この道標は苅間辻の北西角に立っていたと考えると、西が「高田 鬼が窪 金村」、北が「妻木 柴崎 中根 藤澤」(八坂神社で右にそれて妻木を通り柴崎からは今の県道201号のルートか?)で辻褄が合います。
もう1面(写真左側)には、右方向が谷田部 羽成 若栗 牛久、左が一ノ矢 大曽根 泉 北条 筑波と書かれており、右が南を、左が北を指しているので、西(高田方面)から来た時に見える面だったと思われます。
この道標が置かれていたと思われる苅間辻交差点の北西側です。
気のせいか、道標が置けるだけのスペースが面取りされて残っているようにも見えます。
写真の左側には、交差点の南西側に置かれている道標が見えます。
以前、紹介した道標はここに置かれていて、yuzuさんのご指摘のように、北向きに「正面 一ノ矢 筑波街道」と書かれていて、西向きに書かれていた「谷田部、羽成、若栗、牛久 四里」と、東向きに書かれていた「手代木、大沼、舘野、荒川沖 四里」は、いずれも南を指していたに違いありません。
北西側の道標跡地に近づくと、こんな状況です。
昔は、「道路元標」という、市町村の道路の基点を示す石碑が建っていたそうです。
ちなみに、日本の道路の基点を示す道路元標は、東京日本橋に建っています。
昔の道標に隠された謎(というと大袈裟かもしれませんが…)が解けて、もやもやが晴れた気がします。
ソルジャーさん、yuzuさん、ありがとうこざいました。
正面右側の道路沿い、小屋の裏に隠れて立っていました。
道標の左側には、「← 高田 鬼が窪 金村」、
右側には「→ 妻木 柴崎 中根 藤澤」
と書かれています。
この道標は苅間辻の北西角に立っていたと考えると、西が「高田 鬼が窪 金村」、北が「妻木 柴崎 中根 藤澤」(八坂神社で右にそれて妻木を通り柴崎からは今の県道201号のルートか?)で辻褄が合います。
もう1面(写真左側)には、右方向が谷田部 羽成 若栗 牛久、左が一ノ矢 大曽根 泉 北条 筑波と書かれており、右が南を、左が北を指しているので、西(高田方面)から来た時に見える面だったと思われます。
この道標が置かれていたと思われる苅間辻交差点の北西側です。
気のせいか、道標が置けるだけのスペースが面取りされて残っているようにも見えます。
写真の左側には、交差点の南西側に置かれている道標が見えます。
以前、紹介した道標はここに置かれていて、yuzuさんのご指摘のように、北向きに「正面 一ノ矢 筑波街道」と書かれていて、西向きに書かれていた「谷田部、羽成、若栗、牛久 四里」と、東向きに書かれていた「手代木、大沼、舘野、荒川沖 四里」は、いずれも南を指していたに違いありません。
北西側の道標跡地に近づくと、こんな状況です。
昔は、「道路元標」という、市町村の道路の基点を示す石碑が建っていたそうです。
ちなみに、日本の道路の基点を示す道路元標は、東京日本橋に建っています。
昔の道標に隠された謎(というと大袈裟かもしれませんが…)が解けて、もやもやが晴れた気がします。
ソルジャーさん、yuzuさん、ありがとうこざいました。
Posted by Science_City at 23:35│Comments(2)
│歴史
この記事へのコメント
yuzuさん、こんにちは!
ご指摘の通り、同じ方向への案内が2種類あるなど、今の常識とは違うのでわかりにくいですね。
主要な道と脇道の案内が同列なのもわかりにくいですね。
当時の人なりの考えはあったのかもしれませんが…。
…とはいえ、昔の状況を想像するのも楽しいものです。
ご指摘の通り、同じ方向への案内が2種類あるなど、今の常識とは違うのでわかりにくいですね。
主要な道と脇道の案内が同列なのもわかりにくいですね。
当時の人なりの考えはあったのかもしれませんが…。
…とはいえ、昔の状況を想像するのも楽しいものです。
Posted by Science_City at 2014年08月09日 22:57
続報ありがとうございます。
最初の予想がどうやら合っていたようでほっとしました。
この道標がちょっとわかりにくい一つの原因は、
主たるルートと従たるルートが同列にある
(同じくらいの大きさの案内になっている)
ことだと思います。
(北行きの主:一ノ矢・大曽根、従:妻木・柴崎
南行きの主:谷田部・羽成、従:手代木・荒川沖)
たとえば一番大きくて立派な石碑には主たるルートが載っていて、
従たるルートは小さい石碑or小さい文字で記載されていれば
当時の往来する人にも(現代の私たちにも?)
わかりやすかったのではと思います。
今作るならきっと分かりやすくするんじゃないかと思うのですが、
そういうのも当時との価値観の違いなのかと思いました。
最初の予想がどうやら合っていたようでほっとしました。
この道標がちょっとわかりにくい一つの原因は、
主たるルートと従たるルートが同列にある
(同じくらいの大きさの案内になっている)
ことだと思います。
(北行きの主:一ノ矢・大曽根、従:妻木・柴崎
南行きの主:谷田部・羽成、従:手代木・荒川沖)
たとえば一番大きくて立派な石碑には主たるルートが載っていて、
従たるルートは小さい石碑or小さい文字で記載されていれば
当時の往来する人にも(現代の私たちにも?)
わかりやすかったのではと思います。
今作るならきっと分かりやすくするんじゃないかと思うのですが、
そういうのも当時との価値観の違いなのかと思いました。
Posted by yuzu at 2014年08月05日 00:46
コメントは承認制にさせていただきます。 可能な限りコメントには返信するつもりでおりますが、返信ができない場合もありますのでご了承ください。